清里高原はコモンズだった

最近、「清里」という地名について調べています。
きっかけは、「清里高原」と呼ばれる場所は、いったいどこからどこまでなんだろう、という素朴な疑問でした。
ところが調べていくと、「清里」という名前だけではなく、「念場原」という土地の歴史にも行き当たりました。
そして、その土地は、江戸時代には11か村が共同で利用していた入会地だったことを知ります。
そこから私は、「清里高原はコモンズだった」という見方をするようになりました。

「清里高原チラシとカレンダー」を公開して

実は、そのきっかけになったのが、この8月1日に公開した「清里高原チラシとカレンダー」でした。
イベントチラシを集めながら、ふと気になったのは「清里高原」と呼ばれる場所は、いったいどこからどこまでなんだろう…と。

そんな疑問から、少しずつ資料を調べ始めました。
高根町誌を開き、古い論文を読み、地図を広げてみる。
調べれば調べるほど、思ってもみなかった景色が見えてきました。
「清里」という名前の歴史。
「念場原」という土地の歴史。
そして、「樫山」や「浅川」という、現在ではあまり意識されることの少ない地名。
それぞれ別々の話だと思っていたものが、少しずつ一本の線でつながっていったのです。
その線をたどっていくと、私たちが今「清里高原」と呼んでいる地域は、これまで思っていたよりも、ずっと長い歴史の上に成り立っていることが見えてきました。
今回は、その途中経過をまとめてみたいと思います。

「清里」という名前が生まれた日

私自身、長い間「清里」という地名は昔から変わらず続いてきたものだと思っていました。
ところが、調べてみるとそうではありませんでした。
明治8年(1875年)、樫山村と浅川村が合併して清里村が誕生します。
この清里村は実に81年間も続きました。
昭和29年(1954年)に、安都玉村、安都那村、熱見村、甲村の四カ村合併により高根村が誕生。その後、昭和31年(1956年)、高根村との編入合併によって行政上の清里村は姿を消します。
住所は高根村大字樫山、高根村大字浅川となり、「清里」という名前は地図から消えてしまいました。
昭和38年に、高根村が高根町になりましたが、その1年後の昭和39年(1964年)に字として「清里」が復活し、「高根町大字清里」が誕生します。
つまり、「清里」は、一度消えて、もう一度生まれた名前だったのです。
ここで、一つ気になることが出てきました。
昭和31年(1956年)から昭和39年(1964年)までの8年間、本当に「清里」は消えていたのでしょうか。
行政上は消えていても、清里駅はありました。
清泉寮もありました。
人々は相変わらず「清里へ行こう」と話していたのではないでしょうか。地名としては消えていたものの、観光地としての清里という呼称は残り続けていたのではないかと思っています。
その頃の観光パンフレットや新聞、時刻表なども、これから少しずつ調べてみたいと思っています。
行政の地名としては消えていても、人々の暮らしの中から「清里」という名前まで消えてしまったとは、どうも思えません。
駅があり、清泉寮があり、人々が「清里へ行こう」と話していた。
そう考えると、「清里」という名前は、行政だけが決めるものではなく、人々が使い続けることで受け継がれてきた名前なのかもしれません。
そんなことを考えながら、次は「念場原」という土地を調べてみることにしました。

「清里」という地名の変遷(2026年8月版)

出来事
明治8年(1875年)樫山村と浅川村が合併し、清里村誕生
昭和8年(1933年)国鉄小海線 清里駅開業
昭和29年(1954年)安都玉村、安都那村、熱見村、甲村の四カ村合併により高根村が誕生。
昭和31年(1956年)清里村が高根村へ編入合併。行政上「清里」が消え、清里村だったところは、大字樫山、大字浅川となる。
昭和37年(1962年)高根村が町制施行し、高根町となる。大字はそのまま。
昭和39年(1964年)樫山が清里に字(あざ)変更。「高根町大字清里」となる。
平成16年(2004年)北杜市誕生。北杜市高根町清里となる

念場原という共有地

「清里」を調べていると、もう一つ何度も出てくる名前があります。

念場原

正直なところ、最初は「念場原」という名前を見ても、清里の中にある小字の一つくらいにしか思っていませんでした。
ところが、資料を読み進めるうちに、「どうもそうではないぞ」と思うようになりました。
江戸時代の念場ヶ原山は、樫山村や浅川村をはじめ11か村が共同で利用していた入会林野だったのです。
草を刈り、薪を採り、暮らしを支えるための共有の山です。
江戸時代が終わり明治維新の後の明治4年(1871年)に一度官有地=国有地となります。さらに明治22年(1889年)には御料林(皇室の財産としての森林)となり、明治44年(1911年)には皇室から山梨県に下賜されて、恩賜県有林となります。
それでも、人々の入会慣行は続いていきました。
つまり、土地の持ち主は変わっても、人々の共同利用という文化は続いていたのです。

念場原の歴史(2026年8月版)

出来事
旧石器時代およそ1万6千年前にさかのぼる旧石器時代の遺跡が分布
縄文時代八ヶ岳南麓に人々が暮らす(イノシシ穴などがある)
平安時代ごろ馬を育てる牧野として利用される(柏前牧)
江戸時代11か村の入会林野となる
明治4年(1871年)官有地(国有地)となる。入会地としての利用は継続。
明治22年(1889年)御料林(皇室財産林)となる。入会地としての利用は継続。
明治44年(1911年)恩賜県有林となる。入会地としての利用は継続。
昭和初期山梨県が県営八ヶ岳開墾事業計画を樹立(清里村120余町歩)
昭和11年(1936年)開墾事業の直接の受益者となる清里村が他村に対し2,350円を支払い開拓受益権を取得
昭和13年(1938年)丹波山村小菅村からの入植、開拓が始まる
昭和31年(1956年)清里村が高根村へ編入合併。
昭和31年(1956年)財産区へ移行
昭和41年(1966年)念場ヶ原山恩賜林保護財産区となる

ここで、私の中で別々だった二つの話が一つにつながりました。
「清里」という名前。
そして、念場原という入会地。
もしかすると、現在私たちが「清里高原」と呼んでいる地域は、この二つの歴史が重なって生まれた場所なのではないか。
そう考えているうちに、「これは現代でいうコモンズなのではないか」と思うようになりました。

学校の名前が語るもう一つの歴史

もう一つ興味深いのが、学校です。
学校の歴史を調べていくと、「清里」という名前が消えたり、戻ったりしていることに気づきます。
学校は子どもたちが通う場所ですが、それだけではありません。だから学校の名前を追っていくと、その地域が自分たちを何と呼び、どんな地域として歩んできたのかまで見えてくるような気がします。
地域の人たちが集まり、運動会や文化祭を開き、思い出を重ねていく場所でもあります。
だから学校名の変遷は、そのまま地域の歴史でもあります。

清里小学校の変遷(2026年8月版)


出来事
明治6年(1873年)津金学校の分校として樫山村千福寺に開校。一説にはこの時点で清里分校という名称が使われてるとある。
明治8年(1875年)樫山村と浅川村の合併により「清里村」が誕生
明治11年(1878年)津金学校から独立して清里小学校となる
昭和13年(1938年)丹波山村、小菅村からの入植。開拓が始まる。
昭和15年(1940年)清里尋常高等小学校 八ヶ岳分教場開校。
昭和16年(1941年)国民学校令により清里小学校が清里国民学校となる。
同時に、清里国民学校八ヶ岳分教場と改称。
昭和22年(1947年)清里国民学校が清里小学校と改称。
同時に、清里小学校八ヶ岳分教場と改称。
昭和22年(1947年)清里中学校(樫山)が開校。
昭和24年(1949年)清里小学校八ヶ岳分教場が移転・落成。
相の原 伊予ロッヂの場所から現在地(清里3545-2083)になる。
昭和29年(1954年)高根村(安都玉村、安都那村、熱見村、甲村の四カ村合併による)
昭和31年(1956年)清里村が高根村との編入合併することにより
・清里小学校(樫山)は、高根村立東北小学校に改称。
・清里中学校(樫山)は、高根村立東北中学校に改称。
昭和34年(1959年)高根東北小学校八ヶ岳分教場が本校から分離独立して八ヶ岳小学校となる。
昭和49年(1974年)高根東北小学校(樫山)と八ヶ岳小学校(念場原)が統合、それぞれが閉校し、高根清里小学校(念場原)となる。
平成31年(2019年)3月高根清里小学校、閉校。
令和元年(2019年)10月廃校跡地有効活用事業として、NPO法人地域資料デジタル化研究会が、北杜市より10年契約で借り受ける。
令和2年(2020年)4月「八ヶ岳コモンズ」としてスタート。

3545という数字

まだ気になっていることがあります。
「3545」という数字です。
清里を代表する施設の住所としてよく知られるこの数字。
資料の中には「北杜市高根町大字清里字念場原3545」という表記も見られます。
特に、学校寮地区における番地においては、
北杜市高根町大字清里字念場原3545-1 -枝番 という施設が複数ある。


調布市八ヶ岳少年自然の家 高根町清里3545-1

府中市立八ヶ岳府中山荘 高根町大字清里字念場原3545の1
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/shisetu/shino/shigai/fuchusanso.html

立川市八ヶ岳山荘 高根町清里3545-1

最近の施設では
BUB RESORT Yatsugatake 高根町清里 字念場原3545-1-148

https://yatsugatake.bub-resort.com/access/

私には、この3545という数字も、念場原の歴史を読み解く鍵の一つのように思えてきます。
まだ仮説です。
でも、もしこの地番が昔から続いているものだとすれば、それは単なる住所ではなく、コモンズの歴史を受け継ぐ番号なのかもしれません。
これも、いつか調べてみたいテーマです。

おわりに

歴史を調べるというと、年号を覚えることのように思われがちです。
でも実際には、「ああ、そういうことだったのか」と、別々だった出来事が一つにつながる瞬間が一番面白いのかもしれません。
「清里」という名前。
念場原という土地。
学校の歴史。
開拓の歴史。
そして今、私たちが歩いている清里高原。
それぞれが一本の線でつながったとき、私には、この地域が少し違って見えるようになりました。
この記事を書きながら、何度も地図を見返しました。
「清里」という名前。
念場原という土地。
学校の歴史。
開拓の歴史。
別々に見えていたものが、一つにつながると、いつもの景色が少し違って見えてきます。
もちろん、まだ分からないこともたくさんあります。
「3545」という番地もそうですし、「清里」という名前が、人々の暮らしの中でどのように使われ続けてきたのかも、これから調べてみたいテーマです。
でも、今回調べてみて、一つだけ、私の中ではっきりしたことがあります。
清里高原は、突然生まれた観光地ではありませんでした。
長い時間をかけて、人と土地が育ててきた場所だったのです。
だから、この文章に
「清里高原はコモンズだった」
というタイトルを付けました。
これは歴史の結論ではありません。
もしかすると、この先、もっと違う資料が見つかるかもしれません。
私の考えも変わるかもしれません。
でも、そんなふうに少しずつ歴史を読み解いていくこと自体が、とても楽しいのです。
地図を広げ、資料を読み、現地を歩くたびに、新しい発見があります。
また新しいことが分かったら、続きを書いてみたいと思います。

まちの目次、地域の索引。


参考文献については以下のページの出典をご覧ください。
https://front.03llc.com/kiyosato-timeline/

丸山高弘
03合同会社 代表社員CEO
デジタルアーキビスト(認定証番号B001186)

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